2019-2-21 八雲町東岩坂駒返こまがえり

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2019年2月21日(木) 八雲町東岩坂駒返こまがえり
 今日は、2016年3月16日に通った峠道(駒返峠)について調べると、通った峠道は明治期のもので、もう一本江戸時代の峠道があるという。八雲村誌(抜粋8頁)によると、「昔の駒返し峠があり、それは責倉せめくらより支尾根を直登して稜線の鞍部を越えたらしい。責倉部落の上域に一かかえもある大椿があり、ここから今の峠は緩やかに山腹を巻くが、その昔はこの椿尾根からほとんど直登したという話である。」「大椿の近くに祠があり、恐らく峠下の神であろうと思い眺めると仙道が尾根を登っている。登る程に急坂となり、やがて上部で踏跡が消えたため稜線の鞍部を目指して藪の中を這った。鞍部には径があったらしく崩れた幅員が残り、根元だけの大きな朽木の前に積まれた平板状自然石は峠神を祀った痕跡に思えた。」とある。
 この江戸時代の駒返峠を確かめようと、また昭和初期の地形図には東岩坂西奥の落谷おちやの橋から南へ川沿いに進み、1軒の民家の脇から谷を上がり責倉集落へ抜ける径があるので、確かめることにしました。
 「駒返」をなんと読むのかは、八雲村史の中でも「こまがえし」と「こまがえり」との両方の資料を載せているが、江戸時代の「雲陽誌」に「小麻加恵利坂」とあるということなので、ここでは「こまがえり」と読むことにします。

 落谷おちやの橋と交差し南へ伸びる径は、小さな橋を渡り、川沿いから山際へ上がり、水田跡と思われる平坦地を下に見て、山際を周って東へ進んでいきます。やがて民家の下辺りで、細い竹が密生した藪となって踏み跡も見えなくなってしまい、ここまでで断念しました。上の民家までは、超急斜面の竹林となっていますが、なんとか竹に掴まりながら上がると、民家前の舗装道路に出ました。通ってきた径から上がるルートはないかと、舗装道路を引き返してみると、少し下がった場所で、獣道のようなものが斜面を下っていました。(今回載せているルートは、引き返したところからのものです。)
 民家の前から舗装道路を上がって行きますが、途中では竹が倒れていたりして、最近は使われていないようです。しばらく上がっていくと、国道432号へ出会い、国道を更に上がって行くと、左の小高いところに責倉集落があり、バス停から集落へ上がっていきます。少し上がると畑の脇に小さな径があり、辿って行くと、舗装道に出ました。正面の民家の裏に径が続いていて、民家を周って山へと入っていきました。山へ入るとすぐ宮庫のような建物があり、近くに石灯籠も並んでおり、また2体の石地蔵の入った地蔵堂もありました。これが、八雲村史にある「祠」だと思い、近くを見ると、確かに幹が一抱えはある大きな椿の木がありました。建物の脇からは尾根に向かって踏み跡が登っており、これが江戸時代の駒返峠への径で間違いないと思われます。

 建物の脇から竹林内の径を上がって行くと、倒木があったり枯竹が倒れていたりと歩きにくいですが、ところどころにテープが結んでありました。しばらく竹林内を上がって行くと、上部では枯竹もなくなり、歩きやすくなりますが、やがて径は荒れて藪となって、踏み跡も見えなくなってしまいました。このあたりで目印のテープはなくなってしまいましたが、細い竹の藪を切り払って、とにかく上部を目指して尾根を上がって行きました。藪を抜けると、今度は急斜面がしばらく続きます。本当にこの径なのかと不安になりますが、ところどころに枝を切った跡があり、人が通ったことがある径だと、一安心です。昔はこんな急斜面を本当に越えたのかと感心もし、本当に「駒返り」の径だと思いました。
 急斜面を登り切ると、尾根は平坦になりますが、周りの眺望はほとんどありません。木々の間から見える高い山並みは、星上山のようです。しばらく植林内を進んで斜面を上がると小さなピークとなり、南へ稜線をたどると鞍部へ下がります。この鞍部が江戸時代の駒返峠と思われ、八雲村史にあるように「根元だけの大きな朽木の前に積まれた平板状自然石」がありました。峠の反対側は、急な斜面が下がっていますが、次回に歩いてみようと思います。植林地内からピークへ上がらず、鞍部への径を探しましたが、はっきりとした径は見つかりませんでした。

 一旦先程のピークへ帰り、稜線を北に向かおうとしましたが、間違った尾根を下ってしまい、引き返して北への急斜面を下りました。下りた鞍部にも峠道があったようで、踏み跡らしきものが、鞍部から両側に下がっていました。さらに斜面を上り、ピークから稜線を下がっていくと、はっきりした踏み跡があり、竹林内へ続き、見覚えのある明治期の駒返峠の立石が見えてきました。立石は峠道の改修記念碑で「明治五壬申五月 両平之道直シ 施主秦氏世話人藤原□□」と刻まれています。

 この明治五年の改修(道直し)は、八雲村史に「単なる旧道の改修というより本格的な峠道の付替え工事ではなかったか、と推測される。」とあり、この時に江戸期の駒返峠から改修記念碑のある峠道に付け替えられたようです。

 峠道を八雲側へ下りると。家の跡なのか石垣の脇を通り、谷を下って行きます。3年前には谷を下って、炭焼小屋の脇から作業道へ進んでいますが、その手前に左への踏み跡があるように見えたので進んでみました。踏み跡をたどると、古い径の跡のようで、最後に斜面を下ると広い作業道に出会いました。古い地形図にある、峠から直線的に下がる径は、炭焼き小屋を通って谷を下がっていると思われますが、今回は作業道を通って責倉の集落へ向かいました。最奥の民家の前から右へ下りる径がありましたが、すぐに藪となって歩くことはできませんでした。これが藤原への道だと思われます。

 駒返峠と呼ばれる峠は時代の流れとともに変遷し、江戸期の峠から明治5年に改修された峠、明治30年頃に「車力道」に改修された現在の旧国道432号、そして平成6年に開通した現「駒返トンネル」へとつながっています。

八雲町東岩坂落谷
R432の橋に出会う。
橋と交差し小路が伸びる。川に沿って径がある。

径の分岐を左上へ行く。山際に径がある。民家の下辺りで藪となって引き返す。

引き返した径の斜面に踏み跡がある。竹林内の斜面の踏み跡を上がる。舗装道路に上がった。

民家前の舗装道路を上がる。民家から上の道路は使われていない。国道432号へ出会う。

責倉のバス停から集落へ上がる。畑の脇の小径を上がる。広い道へ出て直進する。

民家の裏を径が伸びている。山へ径が続いている。峠に建物があった。

建物と石灯籠と地蔵堂がある。地蔵堂に2体の石地蔵があった。反対側に一抱えもある大きな椿の木がある。

12:19
建物の脇から尾根を上がる径がある。
12:21
倒木がある。

12:26
枯竹が倒れている。
12:29
点々とテープが結んである。
12:30
上部に上がると枯竹はなくなる。

12:36
径が荒れてくる。
12:40
藪になって径がわからなくなる。
12:44
目印のテープはなくなる。

11:47
尾根を上がる。
12:50
やっと藪を抜けた。
12:55
急斜面を上がる。

12:58
まだ急斜面が続く。
13:02
テープの印はなくなるが、枝に切口がある。
13:03
やっと急斜面を登り切る。

13:06
眺望はないが、星上山が見える。
13:10
平坦な尾根を歩く。
13:12
植林地内を行く。

13:17
ピーク(420m)へ上がる。
13:21
南の鞍部に下がると峠に石積みがある。
峠を越えると急斜面になっている。

13:37
ピークへ帰り、間違った尾根を下がる。
13:56
引き返し急斜面の尾根を下る。
14:07

14:11
鞍部へ下りた。
鞍部から尾根を上がる。14:19

14:21
ピークへ上がった。
14:28
ピークから尾根を鞍部へ下がる。
14:31

14:35
竹林へ急斜面を下がる。
14:36
鞍部に立石がある。明治期の駒返峠

「明治五 両平之道直シ」と刻まれている。 14:37
倒竹が多く、3年前より荒れている。
14:38
家の跡か、石垣がある。

14:39
谷を下って行く。
14:41
左へ踏み跡がある。
14:43
径の跡のようだ。

14:44
14:46
広い作業道に出会う。
14:50
倒竹が多い。

14:53
14:58
右へ下りる径がある。
15:00
藪となって進めず、引き返す。

15:02
責倉集落の最奥の家に出てくる。
15:04
竹林の間に舗装道がある。
15:06
国道432号に出会う。



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