2020-11-21 旧山陰道(石州街道) 竪町〜玉湯町湯町

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2020年11月21日(土) 旧山陰道(石州街道) 竪町〜玉湯町湯町

今日歩いたルート 歩いたルート(グーグルマップ) 資料から想定されるルート

旧山陰道 竪町〜浜乃木一丁目(善光寺)
 松江城から出発すると、現在の国道9号竪町交差点で東へ向かう伯耆街道と西へ向かう石州街道に分かれます。竪町から南へ雑賀本町を奥へ入ると洞光寺があります。洞光寺は松江城築城の際に広瀬から移ってきたとのことです。この洞光寺の南に山があり、ここで堀尾吉晴が新城地を探したという伝承から、床几山と呼ばれています。
 洞光寺の北から旧街道は西に折れて、新町の通りを進んでいきます。新町と栄町の境の道路脇に大きなたぶの木があり、その根本の洞に塞の神が祀られています。
 塞の神から西へ進むと、三叉路になり、県道浜乃木湯町線(旧国道)に合流します。右の道は明治になってからできた道で、旧街道は左折し南へ向かいます。100mあまり進むと、右手に円成寺があり、堀尾忠晴の墓碑があります。
 円成寺から100mばかり進むと、道路右手に長いブロック塀が続き、その向こうにJR山陰本線の線路が走っています。昭和37年に湖岸が埋め立てられるまでは宍道湖沿いの道で、昔はここに松並木があったそうで、400mほど行くと、左に善光寺があります。善光寺は出家した佐々木高綱(心瀧上人)を開基とし、境内にその墓碑があります。ただ、資料にある宝暦十二年(1762)に建てられたものはなく、新しく作り替えられた「心瀧上人之墓」でした。「山陰道(島根県)を歩く」に、小さいものですが佐々木高綱の古い墓碑の写真があります。また墓地には古い大きな五輪塔が数基ありますが、名前はわかりません。片隅には江戸後期から明治初期に活躍した乃木出身の力士「鉄ノ戸文四郎」の碑があり、元は道路脇にあったそうで、石碑の側面には「石州街道」と刻まれています。また門前には芭蕉句碑があり、「芭蕉翁 砂見塚」と記され、明和乙酉年(1765年)の銘があります。

竪町
国道9号との交差点

右折すると国道が西へ向かっている。
雑賀町
交差点を直進し雑賀本町へ入る。

雑賀町
正面に床几山が見える。

旧街道は右折するが、奥に洞光寺がある。
新町
洞光寺入り口

新町
洞光寺

洞光寺本堂

新町の通り

新町
椨の木と塞の神


椨の木の穴の中に祀られている。

栄町

道路脇に井戸の跡がある。

県道浜乃木湯町線に合流し、左折する。

栄町

円成寺入り口

円成寺本堂

栄町
堀尾忠晴墓碑
浜乃木一丁目
ブロック塀の向こうにJR線路が走る。

善光寺入り口

浜乃木一丁目
善光寺本堂

入り口の芭蕉句碑「砂見塚」

乃木出身力士「鉄ノ戸文四郎」の碑

浜乃木一丁目
側面に「石州街道」と記されている。

古い五輪塔がある。

新しい佐々木高綱の墓碑(心瀧上人之墓)


旧山陰道 浜乃木一丁目(一丁地蔵)〜湖岸道①
 善光寺から200mほど行くと、跨線橋があります。橋脚のたもとに一基の地蔵像があり、側面に「右 大社・札所・玉造 道」とあり、街道に置かれた一丁地蔵だそうです。
 ここから旧街道は佐野医院の敷地を通って民家の後ろ辺りを南へ向かって山居川を渡って、さらに民家の後を進んで行ったようです。山居川の山居橋を渡って90mほど行くと、左へ入る路地があり、その奥に大きな地蔵像が2基あります。民家の敷地を通った旧街道は、この地蔵像のところにつながっていたようです。地蔵像から坂道を上がると、建物の礎石や瓦が残っており、明治期に消失した別願院の寺跡だそうです。現在は墓地だけが残っています。
 地蔵像からは細い路地が南西に伸びており、けやき通りの乃木駅前の交差点付近に出てきます。さらにけやき通りを横断して、小さな水路沿いに220mほど南下すると、旧街道は左折し、民家後の細い小路を上がると、乃木新町から下がってきたもう一つの旧街道に合流します。
 跨線橋の一丁地蔵からは2つのルートが有り、南へまっすぐ進む旧街道は他のルートより新しく造成されたものだそうです。もう一つのルートは古くから長く使われた街道のようです。
 

浜乃木一丁目
跨線橋の下から直進する。

跨線橋の下に一丁地蔵がある。

「右 大社・札所・玉造 道」とある。

浜乃木一丁目
敷地の中を旧街道は通っていた。

山居川の山居橋を渡る。

90m程先に左への路地がある。

浜乃木二丁目
路地の奥に2基の地蔵像がある。

坂道の上に別願院の寺跡がある。

墓地が残っている。

浜乃木二丁目
地蔵像から南西に道が伸びている。

細い路地を行く。

突き当りを左へ曲がる。

浜乃木二丁目
けやき通りへ出てくる。
浜乃木四丁目
けやき通りを横断し南へ進む。

小さな水路沿いを進む。

浜乃木四丁目
旧街道は左へ曲がる。

民家の後を行く。

新町から下がる旧街道と合流する。


旧山陰道 浜乃木一丁目(一丁地蔵)〜新町道②〜浜乃木三丁目(農林高校)
 跨線橋の一丁地蔵から左折し、山居川の庄司橋を渡り、南東へ進むと、野代神社の前からけやき通りに出てきます。けやき通りを横断し、南へ路地を入って、乃木新町に入ります。新町は丘陵地にあり、すぐにY字路を右へ上がって行きます。少し上がった右手の上に十王堂があり、広い道に出会った右に歳徳神がありました。峠に上がった路傍に荒神・恵比須社・社日が一箇所に祀られています。社日碑は五角形の石柱に「天照大神」などの5柱の神名が刻まれています。
 峠を下ったところで、先ほどのもう一つの旧街道のルートと合流しています。合流した旧街道は西へ進んで、農林高校の運動場を横切って忌部川を渡ったようです。

浜乃木二丁目
跨線橋から左折し、南東へ向かう。

山居川の庄司橋を渡る。

橋を渡って右の道を進む。

浜乃木二丁目

野代神社入り口

浜乃木二丁目
野代神社拝殿

けやき通りに出る。
浜乃木四丁目
乃木新町へ入る。

浜乃木四丁目
すぐに右へ入る。

右上に十王堂がある。

内部の様子

浜乃木四丁目
小路を上がって行く。

広い道に合流する。

右の杜に歳徳神がある。

浜乃木四丁目

峠の右に恵比須社などがある。

荒神・恵比須社・社日が祀られている。

浜乃木四丁目
峠を下がると、もう一つのルートと合流

合流した道は南西に向かう。

西へ曲がって行く。

浜乃木町

旧道は農林高校の運動場を横断していた。

運動場の脇の道を進む。


浜乃木湯町線に合流し、忌部川へ向かう。



旧山陰道 浜乃木町(半原橋)〜乃白町(山陰道高架下)
 農林高校の運動場を横切った旧街道は、現在の忌部川にかかる半原橋より少し南側を渡ったそうです。橋を渡ったところの道路脇に地蔵像跡があったと資料にはありますが、ここら辺りは県道松江木次線の高架工事で新しい橋脚が立っており、昔の面影はありません。ただ橋脚のたもとに新しい石地蔵があり、これが以前の地蔵像跡を復元したものか、他の因縁によるものかはわかりません。
 高架下を過ぎると、旧街道はパナソニックの敷地内を通って、敷地の西端の白龍大明神の前に出ていたということですが、今では道はありません。県道のパナソニック前を通り過ぎると、敷地に沿って細い道があり、フェンス内にある白龍大明神の前まで続いています。資料によると、白龍大明神は古い記録にはなく、会社が新しく祀り直したのではないかとしています。(パナソニックに確認すると、企業神社だということです。)
 白龍大明神の前から細い道が続いており、これが旧街道になるようです。旧街道は、湖南テクノパークへの進入路を横切って、県道浜乃木湯町線の一段高いところを南に向かっています。舗装道路は途中で県道へ出ていますが、さらに無舗装の道、そして畑地のような空き地が続き、消防学校の手前で県道に合流しています。この県道へ合流する部分は市有地となっているので、そこへ連なっている民家の後の畑地のような場所も、道路跡かもしれません。
 消防学校入り口の少し南の県道の右側擁壁に四角い穴が開けられ、一丁地蔵が祀られています。資料によると、県道の「坂道北山手の畑の中」にも地蔵像があるとされていますが、山陰自動車道の整備によって県道も移設され、今では探すこともできません。
 現在の県道は山陰自動車道の高架下を抜けてすぐ直角に右折し、峠に向かっていますが、高架の手前の藪の中に舗装道路の跡が見られ、移設前の県道は自動車道に沿って峠に向かっていたようです。

浜乃木町
忌部川の半原橋
乃木福富町
県道松江木次線の高架下を行く。

高架橋の橋脚のたもとの新しい石地蔵

乃木福富町
パナソニックの前を行く。

工場敷地に沿う小路を進む。

乃木福富町
小路の突き当りの橋を渡る。

フェンスの中に白龍大明神がある。

白龍大明神の前から南へ向かう。

乃木福富町
テクノパーク進入路を横断する。

山際の細い道を進む。

民家の間に道が続く。

乃木福富町
舗装道路は左折する。

空き地が続いている。

この先で左折する。

乃木福富町
県道へ続く市有地

消防学校入り口

道路擁壁の中に一丁地蔵がある。

乃木福富町
一丁地蔵

山陰自動車道の高架下を抜ける。

高架橋の手前の藪の中に旧県道の跡がある。

乃白町
移設後の県道



旧山陰道 玉湯町布志名(東廻池)〜玉湯町湯町(玉造病院)
 県道浜乃木湯町線は、山陰自動車道の高架下を抜けてすぐ直角に右折し、玉湯町布志名への峠を越えて行きます。改良前の県道は、右手の法面の上の自動車道の部分を通って、東廻池の端をまわって、現在の県道へつながっていたようです。橋を渡ったところで、旧道は左へ曲がって行きますが、その角に峠にあった塞の神が移転されていました。
 左へ折れた旧道はすぐ県道へ合流します。県道から左へ入る路地があり、その奥に判官山と呼ばれる小さな丘があり、長い石段が上がっています。頂上には富士名氏旧蹟碑があり、その手前の少し下がった場所に後醍醐天皇の隠岐脱出を手助けした富士名判官義綱の古墓があります。また同所に小さな社があり、露出した古墳を祀ったような形になっています。
 旧街道は判官山へ左折した付近から右へ張り出し、また左へ曲がって300mほど進む間は、その痕跡がありません。途中で左へ入ったところに、布志名焼雲寅窯がありますが、布志名焼は17世紀後半から始まったと言われています。また近くには明国寺があり、布志名氏の建立と言われています。
 やがて県道から斜め右に小路が分かれ、自動車道の高架下を抜け、直角に曲がって南西へ向かっていきます。資料によると、この曲がり角に地蔵群があったと記されていますが、自動車道の橋脚工事によって失われてしまったようで、現在では見当たりません。
 直角に曲がった道は山裾を進み、途中に2体の一丁地蔵があります。2つの山の鼻をまわると県道へ合流し、緩やかな坂を上がって樅ノ木堤の脇を通って、自動車道の仙石トンネルを抜けて行きます。旧県道(旧街道)は、堤の脇からトンネルの上部を越えて行ったと思われます。
 トンネルを抜けて右へ曲がって行くと、竹やぶの脇に背を向けた石地蔵があります。石地蔵が向く竹やぶの中には踏み跡が中へ向かっています。石地蔵には「俵藤太」と刻まれていますが、いわれはわかりません。ただ石や刻まれた文字の風化具合からは、そんなに古いものではないようですが、旧街道の名残りなのかもしれません。
 旧街道は玉造病院の敷地を通って、進入路の北側に沿って西進し、北側の線路を越えて旧県道へ合流していたということです。県道は2009年に改良され、トンネルを抜けた県道は病院の手前から南西に曲がり、山際を通って玉造へ入るようになりました。

玉湯町布志名
旧県道は法面の上を通り、

池の端をまわっていた?

東廻池

玉湯町布志名
東廻池橋を渡って左へ曲がる。

峠から移設された塞の神

玉湯町布志名
県道へ合流

県道から左折し路地へ入る。

路地の奥に長い石段がある。

玉湯町布志名
石段の上部から右折し下がる。

小さな神社がある。

玉湯町布志名
富士名判官義綱の古墓

旧街道は県道から右折していた。

県道へ戻り、直進する。

玉湯町布志名
県道から左折

雲寅窯

明国寺

玉湯町布志名
明国寺 子育地蔵

明国寺本堂

県道から右折する。

玉湯町布志名
自動車道の高架下を行く。

すぐに左折する。

玉湯町布志名
道端にある一丁地蔵


山沿いに進む。

玉湯町布志名
水田脇を曲がって行く。

この先で県道へ合流する。

県道の緩やかな坂を上がって行く。

玉湯町布志名
樅ノ木堤

自動車道の仙石トンネルを抜ける。

トンネルを出て右へ曲がる。

玉湯町湯町
道路に背を向けた石地蔵がある。


側面に俵藤太と刻まれている。

玉湯町湯町
竹やぶに踏み跡がある。

旧街道は玉造病院の敷地内を通っていた。



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