2023-11-1 松田左近妻女の墓、御岳山、太郎兵衛住居跡 |
2023年11月1日(水) | 松田左近妻女の墓、御岳山、太郎兵衛住居跡 |
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「ふるさと持田の彩」を片手に、残っている松田左近妻女の墓、太郎兵衛住居跡を探しに出かけました。また、今まで御岳山へは2回ほど登っていますが、道なき斜面を上ったという感じでしたが、頂上近くの神社跡から下っている踏み跡は日吉の方に向かっていたので、今回日吉集落から登り口を探してみようと思います。 |
東持田町 松田左近妻女の墓 |
西持田町 御岳山 |
西持田町 太郎兵衛住居跡 |
2023年11月1日(水) | 松田左近妻女の墓 |
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東持田町の持田小学校前から北へ進むと、左手にポンプ場が見えてきます。この建物の手前のあぜ道の向こうに見える木の根元に墓があるということです。あぜ道を川まで進みますが、土手は垂直で、川の流れは多くはないものの、そのままでは渡れそうにありません。川の上下を探すと、少し下流に流れが浅くなり、飛び石伝いに渡れそうな場所がありました。垂直の土手にも途中に段差があり、下りることができました。流れの縁を歩いて、あぜ道の正面の土手に行くと、土手は草薮になって、登るのに一旦躊躇しました。何とか藪の中を土手に上がり、枯れ草をかき分けると、大きな木の前に、「松田左近妻女の墓」と書かれた標柱が立っていました。これは、最近建てられたそうです。枝葉に隠れた木の根元の見ると、横の方に上部が欠けた五輪塔が残っていました。 「一級河川持田川を挟み、持田小学校前方の東持田町1,129番地田の中に、お墓という五輪の石塔があり、これが松田左近妻女の墓と伝えられる。永禄年間(18世紀中頃)、白鹿落城のとき、ここで敵手にかかったか、自害したのか定かでない。」(ふるさと持田の彩り) |
東持田町 あぜ道を川へ向かう。 |
少し下流に渡れそうな場所がある。 |
飛び石伝いに渡る。 |
木に向かって土手を上がる。 |
大きな木の前に標柱がある。 |
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一基の壊れた五輪塔がある。 |
2023年11月1日(水) | 御岳山の新ルート |
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西持田町の御岳山は以前に県道側や納蔵から道なき斜面を上ったことがありますが、日吉集落から登山道がありそうなので、探してみることにしました。日吉集落の奥で尋ねてみましたが、「山のことを知る高齢者は皆亡くなったり、話ができる人はいなく、もう分からなくなっている。」ということでした。 帰りに、斜面から登ってきた道と合流したところから、斜面を下ってみました。広く歩きやすい道が続いており、鉄塔No.20を経由し、その後は鉄塔巡視路を下ると、亀尾地区の住宅の脇へ下りてきました。 「幻の宮跡 標高295mの御嶽山の山頂に、明治初年まで社があった。社が建っていた一枚石、灯籠、御手洗石や、さわりの池跡も残っている。かっては、婦人の参詣客が多かったと伝えられる。」(ふるさと持田の彩り) |
西持田町 日吉集落の奥から谷へ向かう。 |
御岳山 |
田んぼの脇の作業道を入る。 |
作業道の突当りから山へ |
11:58 右へ、鉄塔巡視路を行く。 |
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12:00 斜面を上っていく。 |
12:00 階段を尾根筋へ登る。 |
12:04 尾根筋を左へ登る。右は鉄塔へ |
12:05 枝葉が延びて踏み跡がはっきりしない。 |
12:07 踏み跡がはっきりする。 |
12:14 |
12:23 |
12:28 笹竹が多くなる。 |
12:34 |
12:46 平坦な場所に上がる。 |
12:50 鞍部に下ると、右斜面から上がる道が合流 |
13:04 道は不明だが竹林の中の尾根を登る。 |
13:10 しばらく枯竹が倒れて登りにくい。 |
13:15 枯竹を抜けて急斜面を登る。 |
13:22 道がはっきりしてくる。 |
13:30 シダに道が隠れる場所がある。 |
13:33 |
13:37 急傾斜になってくる。 |
13:45 急斜面の獣道を登っていく。 |
13:51 道がはっきりしてくる。 |
13:57 まだ急斜面を登る。 |
14:00 何箇所か倒木がある。 |
14:05 傾斜が緩くなる。 |
14:10 平坦地になるとテープが多く巻いてある。 |
14:12 鞍部へ下がり、また急斜面を登る。 |
14:24 平坦な道へ上がり、頂上が近い。 |
壊れた石灯籠 |
手水鉢 |
14:26 池のような水たまり |
壊れた狐像 |
14:27 四等三角点 |
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15:20 合流地点から別ルートを下る。 |
15:23 |
15:27 |
15:30 |
15:44 鉄塔No.20 |
15:46 巡視路を下がる。 |
15:51 墓地の脇を下がる。 |
15:52 民家の脇へ出てきた。 |
2023年11月1日(水) | 持田の太郎兵衛の住居跡 |
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西持田町の和田上地区にあったようだが、全く位置がわからないので、地元の方に尋ねると、「あの家のところが以前は竹藪で、大きな椿の木があった。字名は『森山』という。」とのことでした。今は、住宅が建ち、竹藪も椿の大木もなくなって、その痕跡はありませんでした。 「江戸中期元禄の頃(約300年前)、森山太郎兵衛は江戸城において、出雲の殿様の期待にそって相撲をとったところ、持ち前の気転をきかせ、江戸の大力士を投げとばした功績で庄屋の役職を与えられ、西餅田和田に大邸宅を建て、倉庫も10棟余、大きな門構えの生活に入った。・・・現在、西持田町和田上にある俗称庄屋畑は、森山太郎兵衛の屋敷跡で、現に台帳面も『字森山』とあるのがそれである。付近には・・・竹藪に八千代の齢を誇る老木の椿があり、往時の夢を秘めて今も美しい花をつけている。・・・この太郎兵衛も風紀粛正にふれ、・・・伯耆大山の赤松に身をかくし、」(ふるさと持田の彩り) |
西持田町 住宅が建ち、その痕跡はない。 |